学校と塾の役割分担があることには、メリットがあります。
それは、塾があることで、学校が受験勉強に縛られないでいられるということです。塾があるから学校では自由でいられるのです。
もし、日本に塾が存在せず、学校が100%、生徒の受験勉強の世話までしなければならないとしたら、開成にせよ灘にせよ、どうしても目先の学力を追うようになってしまうでしょう。学校の意志というよりは、生徒や保護者から、そのような要望が強まることでしょうし、塾が存在することで、学校はより本質的な教育に専念することができるのです。本質的な教育とは、目先の学力を追い求めるのではなく、卒業して10年あるいは10年たった後に、じわりじわりと価値が表れるような、人生そのものを豊かにする教育です。塾があることで、学校は、「長期的な目標を見据えた本質的な教育と大学合格を目的とする教育の両立」というジレンマから解放されているのです。
またもし、学校が率先して受験指導を行うようになると、各学校の受験指導の方法が固定化されていくことが懸念されます。
たとえば同じ開成生でも、 6年間コツコツと努力を重ねるタイプの生徒もいれば、高3の運動会が終わってから短期集中で大学受験にのぞむタイプの生徒もいます。現在はそれぞれの生徒が、自分の性格に合った学習スタイルの塾を選ぶことで、それぞれにとって最も効率的な受験勉強をすることが可能になっています。しかし、もし学校が一律に生徒たちの受験勉強を仕切るようになると、生徒の自由度は下がり、開成生はみんな同じような受験勉強の仕方をしなければならなくなるでしょう。その方法が自分に合っている生徒はいいのですが、そうでない生徒にとってみれば悲劇となってしまいます。
実際、開成にしても麻布にしても灘にしても、昔は生徒のおしりを叩いて、かなり勉強をさせる学校であったようで、今より生徒たちの不満の声も多かったといいます。これは、今ほど塾が存在せず、学校が一手に受験指導を引き受けなければならなかったからです。
これらの学校が、現在受験勉強に縛られない自由な校風でいられるのには、学校民主化の流れに加え、塾の広まりという社会的背景も追い風になっていたと考えられます。